つなぐレポートアジア

具島順子さん・ラオス旅(2016年2月)

ラオス:聞いたこと見たこと感じたこと

ラオスはベトナムに寄り添うように南北に細長い人口670万の国。ベトナム・中国・ミャンマー・タイ・カンボジャの五つの国と国境を接し海はない。しかし、メコン川からの幸は豊富である。

日本の本州くらいの国土の80%は山。王政を廃し1975年内戦終結。「ラオス人民共和国」となった。80%が仏教徒、20%が精霊信仰の48民族の多民族国家である。

ポーンサイ小学校を訪問。歓迎会では「精霊信仰」を思わせる「おもてなし」が村の長老のよってとり行われた。鉄棒も遊具も何もない広い校庭には鶏が駆けまわっていた。三年生の少女たちがお揃いの巻きスカートの民族服で踊りを披露してくれた。手の動きが実に柔らかで愛らしかった。

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一行27名の私たちはお返しに前夜特訓で覚えた「僕らはみんな生きている」をラオス語で歌い、手話の振り付けで踊って拍手喝采をあびた。お母さんたちの手料理が振る舞われたが魚のから揚げや豊富な野菜・山菜料理は実に美味しかった。校長はじめ先生たちも一緒に乾杯。校庭に面した廊下に長く机を並べ酒盛りが始まった。生徒たちがみんな見守る中で学校で酒盛り!日本では考えられないことだ。180人の生徒に先生は九人。六人が女の先生だった。義務教育は5年、中高は7年とのこと。

40家族のホイ村を訪問。村長の案内で村落をめぐる。丁寧に作物つくりをしていた。住まいは高床式で藁葺きの家が多いが、「近代的な家」はお金が貯まると少しずつ建てていく。まず玄関、次は台所。またお金が貯まると次は居間というように10年くらいかけて造るのだそうだ。一戸当たりの年収は10万円。自給自足とはいえ村からそとに教育にだすのは大変だろう。大学は三校あるそうだ。 

モン族の集落。タ・ジョーク村へ。「えっ!笑っちゃいけないけどこれってクラスター爆弾でしょ!」家畜小屋、脱穀などの農作業小屋。あっちもこっちもクラスター爆弾がそのまま建材として使われている。なるほど頑丈だ!高さもちょうどいい!無限にある建材だ!柱にすればそのまま高床式になる!植木鉢にも縦半分で落下したままの爆弾が使われている。

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4,5歳の子どもたちがぞろぞろ出てくる。大きな子は学校なのだろう。家屋に入らせていただく。土間と奥に寝室があるだけ。土間にはテレビと炊飯器。壁に精霊信仰だろうか祭祀が飾られている。家具らしいものは何もない。とてつもなく大きなかぼちゃが土間にごろごろ。鳩が飼われていたが食用だそうだ。なかなか生活は厳しいんだと感じる。

町ぐるみ世界遺産のルアンパバーンはホテルを建てても建てても追いつかないそうで観光客でごった返していた。レストランも一番しゃれていた。農村との格差は相当なものだと感じる。仏教国だからあちらにもこちらにもお寺があるが、日本と違い金色に輝き、彩色は派手なことこの上ない。お参りにはマリーゴールドの花を携えていく。

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観光といえば度肝を抜かれたのがジャール高原の壺群。文字通り平原にごろごろ転がる壺Jarである。シェーンクワン県60か所以上に1000個もあるそうだが、大きな石壺は10人がかりでも動かすことは困難。文字を持たない民族だったから記録はないが何の目的でこんな巨大な石壺をつくったものか。テントを張って考古学調査が行われていた。摩訶不思議な世界。壮観としかいいようがない。

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ベトナム戦争時、ラオスは中立国にも関わらず、第二のホーチミンルートとしてアメリカによる猛爆を受けた。 1964年から1973年の9年間に毎日24時間8分ごとに一発の爆弾が落とされた。クラスター爆弾は長さ120センチくらい、投下すると縦半分に割れ、数百個のボール爆弾をままき散らす。

中部シンクアン県で不発弾処理の現場に立ち会わせていただいた。一チーム21名、50m正方に綱を張り、二人一組で探知機で丁寧に、きめ細かく探る。反応がある所には赤い印を置いていく。金属に反応するので弾丸以外にもさびた鉄製品が回収されバケツに集められる。この日は11個の不発弾、ボール爆弾の処理となった。私たちは300メートル以上離れたテントの中だったが、もっと近くで見学したい人は「名前と血液型」を書くようにと言われ皆遠慮した。広報車で村の人にも「待機」が呼びかけられ車も止められる。緊張の一瞬。爆発の轟音と白煙が上がり11個の不発弾が処理された。処理後もまた丹念に「探知機」を動かしていく。ひらちの田んぼ50平方メートルの処理でこの労力。

私は、この旅の出発前BSでラオスの不発弾処理の番組を観た。一つ間違えば命を落とす処理の技術者の養成は真剣勝負、合格者はわずかだった。この日の処理現場にも出産間近かの女性技術者も働いていた。BSの番組では、友だちを不発弾で亡くした少年が「落とした人に持って帰ってほし」と切実な願いを語っていた。貧しい子どもたちは「鉄くず」としてお金になるので危険を冒して発掘しようとして死傷事故が絶えないそうだ。山また山のラオス。日本への輸出は「備長炭と松の木材」と聞いた。

山間地の不発弾はどうするのだろう。ベトナムの枯葉剤も今なお地下水となって流れ、福島でも山間部の除染はお手挙げだ。ラオスでは山で働く人も多い。「落とした国が持ち帰れ」私も強くそう思う。アメリカはラオスの不発弾処理に毎年7500$を拠出しているそうだ。

フランスは1893年ラオスを植民地とした。1945年には日本軍が干渉。インドシナ戦争で再びフランスが植民地に。しかしフランスは人口も少ない山国から得るものは少ないと、道路やインフラの整備などしてこなかった。歴史館にはホーチミンとの交流の写真も残されていた。ベトナム同様、ラオス人民の闘いがあって国王追放、「ラオス人民共和国」成立に至ったことを知った。養蚕・絹製品。紙漉き。竹工芸品など素晴らしい。

高原のホテルに宿泊したが、朝夕の温度差は大きく、谷から湧き上がる見事な朝霧。おいしい紅茶にはこの条件が大切なのだそうだ。紅茶を起業できないものだろうか。ラオスよ!頑張ってほしい。知らないことばかりのアジアの国々。これからもテーマのある旅に出かけたいと願ってる。

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